第1回
斬首をめぐって
後編
by Tsurisaki Kiyotaka
2011年2月12日
前編に引き続き、我が国が誇る死体カメラマンによる斬首論。裁判員制度を開始し、依然として死刑を続けてゆく日本と比して、中米の殺人大国は死刑制度を導入していない。その事実が物語る国家と人民の壮絶な関係とは。そして、この日本において、死体カメラマンが表現すべき信念とは。
Profile
釣崎清隆(つりさき きよたか)。死体写真家・映像作家・文筆家。1966年富山県高岡市生まれ。 慶應義塾大学文学部卒。学生時代より映画制作、文筆活動に従事し、AV監督を経て1994年に写真家としての活動を開始。1995年、NGギャラリーにて初個展。ヒトの死体を被写体に タイ、コロンビア、ロシア、パレスチナなど世界各国の無法地帯や紛争地域を取材し、これまでに撮影した死体は千体以上。現在は『実話マッドマックス』(コアマガジン)『実話ナックルズ』(ミリオン出版)『トーキングヘッズ叢書』(アトリエサード)で連載。著書に『死体に目が眩んで』『ファイト批評』映像作品に『死化粧師オロスコ』『ジャンクフィルム 釣崎清隆残酷短編集』がある。電子書籍写真集『FLESH』が公式ウェブサイト「TSURISAKI.NET」にて発売中。
匿名の正義は美徳だが本源的に理はない。
「死刑が凶悪犯罪の抑止力にならないことはすでに世界的常識である。懲罰施設というものは囚人の最低限の人権を保障した程度でなければならず、死刑制度はその経済性により国家の都合で据え置かれているにすぎず、本来囚人の人権を保護し不合理な死刑制度の撤廃に運動しなければならないのは市民の方であるべきだ。だがどういうわけか日本国民の9割超が死刑制度を必要だとし、終身刑を導入すべきとする8割弱の意見を上回る。
コロンビア人は〝ラサ・ベンガティバ(復讐人種)〟と呼ばれる民族性で国際的に有名である。いったん殺人が起これば、被害者にいくら殺されるだけの理由があろうが、その家族は犯人に復讐しなければならない。そしてその復讐が遂げられるとその実行犯は自分たちの復讐と同様の原理でまた復讐された被害者の家族に復讐される。復讐の連鎖は延々と繰り返し、血みどろの紛争は時に両家の一族が根絶やしになることで終結することもある。そこには警察の介在する余地はない。農村部では警察や軍に頼らずに大家族の男手が牧童らと自警団を組織して左翼ゲリラの脅威から土地を自衛する。妥協なき報復合戦の悲劇は、戦争で培われた家族の強力な絆と男伊達の所産であり、伝統的価値観としてコロンビア全土を覆っている。
そんなコロンビアだが、ラテンアメリカの59パーセントの国と同様に死刑を完全廃止している。それも歴史が古く、最後の公式的死刑執行はなんと1909年にまで遡り、1991年に完全廃止された。1991年憲法には「生きる権利は不可侵である:死刑を廃止する」と規定されている。
コロンビアはラテンアメリカにおける死刑廃止先進国の盟友ウルグアイなどとともに国連第三委員会において死刑廃止を規定する自由権規約6条の起草案の作成に指導的な役割を果たし、1957年開催の国連第三委員会では第1項「すべての人間は、生命に対する固有の権利を有する」という、生命に対する権利は国家によって個人に付与されるものではなく自然権的権利であるとする議論から踏み込んで、「いかなる者も、死刑を科せられることはない」と、死刑の完全廃止に切り込む追加規定を提案した。紛糾する第三委員会にあって両国が主張したのは、無実の者が科刑されてしまう決して払拭できない可能性、そして死刑がまったく犯罪抑止力になっていないという事実だった。
ラテンアメリカ諸国において死刑廃止とは、頻繁に発狂して牙を剥き、圧倒的に制圧して市民を黒い霧に消し去ってしまう怪物としての国家が及ぼす政治的暴力の嵐に巻き込まれて大量の市民が身に覚えのない嫌疑で政治犯として拘束され、虫けらのように死刑適用されてきたおぞましい歴史に立脚した、嘘を吐き、騙し、裏切り、ヒトを食らう国家に対する決定的不信、トラウマが搾り出す悲鳴に似た叫びなのであった。
きっと日本人が死刑制度を望む心理の根幹には、これだけ裏切られ続けてもやはりお上の無謬(むびゅう)性を信じ、根拠のないつぎはぎの信仰にしがみついて、隣人と足を引っ張り合う平準化の対症療法でしか打開策を見出せない、救いようのない百姓根性の負が鎮座しているのだろう。
考えが偏狭で、なおかつその中でも惑う日本人には〝物〟を作る仕事が合っているのだろう。実は極度に精神的でありながら、否、その言語化困難な曖昧さを自然とするからこそ、かえって唯物主義的になり、信じるのは目に見えるものだけなのだろうか。しかも見ていながら同時に目をつむる。現実が見える透明なシステムをわざと構築せずに、しかも現実主義を謳い、冒険者や先駆者を堂々と糾弾する、前例のない新しいことを一生懸命試みている人間を民衆の敵か何かだと思っている。インド世界のカーストほどではないにしろ、日本にも歴史的身分制由来の世系による差別が厳然と存在するし、社会の固定した枠組みからの突出は歓迎されない。ちなみに漁師家系である僕がもしインド人だったとしたら、殺生を生業とする低カーストかアチュート(不可触賤民)として、固定した陰鬱な人生を坦々と生きることになる。
僕が指摘したいのは、日本に限ったことではないが、己の正義を疑わないのはまだしも、その原理で他人を罰しようとする厚顔無恥、その罪に決定的に無自覚な、そのあまりの不自由さのことである。制限付きの自由は宗教からでも得られるだろうし、また完全な自由は机上の空論だろうし、もし仮に実現したとしても危険すぎる。
しかしそれでも〝自由〟を、少なくとも美徳とは考えるべきだろう。夢に力を与えるのが自由だ。ひたすら夢を見るだけで終わってしまうとすれば、それは自由ではないからだろう。
匿名の正義は美徳だが本源的に理はない。自由に伴う責任がおざなりにされる可能性があるからだ。己の名においてで世界に問う〝表現者〟とは重責を担う立場なのである。
僕はジョエル・ピーター・ウィトキンほど肉食的でもなければジェームズ・ナクトウェイほど原理主義的でもない。ただ、例えばいくらそこに男色が横行していたとしても、実際のおぞましさは別の問題として、僕は天使にソドムを滅ぼす権利があるとは思えない。オサマ・ビン・ラディンが死後地獄に落ちるとはどうしても思えない。
僕にできることはひたすら凝視することぐらいだ。ただ、泣きじゃくる子供をいくら凝視したところで戦争の首謀者の醜い魂胆は決して見えてこない。ヒトの首を刎ねて雄叫びとともに掲げるほどの凄まじい怒りを直視せずして、戦争の本質に迫れるわけがない。
(次回原稿は2月第1週更新予定でしたが、著者緊急取材のため遅れています。もうしばらくお待ちください)
『THEフッカーズ・ナイト』
フック貫通で身体を吊り下げる、サスペンション・カルチャーを日本から世界へ発信する「THE フッカーズ」。その3年間に及ぶ活動を衝撃映像&トークで振り返る。また改造人間大集合で最先端情報を実物で報告する。
2011年4月20日(水)
会場:「ネイキッド・ロフト」
OPEN 18:30 START 19:30
前売り¥1500/当日¥1800
出演:THE フッカーズ:
ASAMI、MIKELE、BIN、CHIYO、YOSHI、KEI、TAKAHASHI、
改造人間軍団(サイコソース、蠍、にちき、ヒューイット他)&ケロッピー前田
【司会】月花
【ゲスト】ゴッホ今泉 福田光睦【DJ】イシイ
ケロッピー前田写真展『BODYMOD』
ケロッピー前田が、身体改造ジャーナリストとして、20年に渡ってドキュメントを続ける、身体改造(ボディ・モディフィケーション)の全貌を写真作品で紹介する。
2011年4月18日(月)~5月15日(日)
Open 12:00~20:00/不定休
会場:A store Robot(アストアロボット)
東京都渋谷区神宮前2-31-18
TEL:03-3478-1859
来廊予定





